アプロ君のいちからわかる経済教室;価格とは何か

経済

現代社会は「交換経済」、すなわち「商品経済」に基づいています。
それでは、「商品経済」のもとで人々の交換行為はどのような仕組みによって行われているのでしょうか。

・価格とは何か

私たちが日常生活の中で経験しているように、商品の売買はけっして個々人が自分の判断で思いのままで行うわけにはいかないはずです。
例えば、ある商品に対して買い手が自分勝手に価格を決めて代金を払うことはありえないことですよね。売り手の意向も無視できないはずですよね。買い手が1,000円で買いたいと思っても、売り手が1,200円でないと売らないとするならば、交換は成立しませんよね。
なので、売り手と買い手の妥協点においてはじめて交換はなりたつのです。これは結構、目に見えない対立が潜んでいると言えますよね。と言いますのは、売り手は出来るだけ高く物を売ろうとし、逆に買い手は安く買おうとするからです。
結局、商品の売買が成立するためには売り手と買い手の両側が、どこかで妥協点を見いだすしかないのです。それが、市場における値段、すなわち市場価格なのです。

では一体、その妥協点となる物やサービスの値段=市場価格はどのようにして決まるのでしょうか。
要するに、ある商品が1,000円だとすると何故に1,000円なのかということです。
例えば、自家用車1台を購入するのに数百万円もしますし、あるいはテレビやエアコンなど家電製品などは数万円から数十万円もしますが、これらの商品の値段(価格)は一体どういう仕組みで決まるのでしょうか。

・市場価格はどのようにして決まるのか

実はこの問題、そう簡単ではないのです。
ある説によれば、財・サービスの値段はその使い道が広いとか、使う人にとって与える満足度が大きいほど高く値段が設定されるというのです。言い換えれば、財やサービスの有用性によって値段が決まると主張するのです。
この見解、一見それらしきごときに聞こえますが、使い道や有用性、それを利用する人にもたらす満足度(効用)というのは人によって千差万別なのです。勿論、ある財の有用性というのはある程度一定していると言えるでしょう。
例えば、自家用車は人を乗せて別の場所に移動する時間を短縮させることや、テレビは情報媒体として人々にあらゆる情報を与えたり、娯楽手段としての有用性をもっていると言えますよね。
これはこれらの商品がどのような有用性もっているのか、一般的な規定として言えるでしょう。
しかし、実際のところテレビをすでに何台ももっている人にとっては、テレビよりも冷蔵庫や掃除機などの家電製品がより嗜好性が高いはずです。だとすれば、その人にとってはテレビより掃除機のような家電のほうがより満足度が高くなるということです。

そういう意味では、財やサービのう有用性やそれによる満足度で値段が決まるというのは客観性に欠けると言えるでしょう。極端な話、自家用車を数十台所有している人にとっては、車よりサイクリング用の自転車の方がより大きな満足を与えるかもしれないのです。

では、私たちが日常生活で使用する商品としての財やサービスの価格は如何にして決まるのでしょうか。

先ほど、売り手と買い手の妥協点において価格が決まると言いましたが、これを言い換えれば、買い手(需要)と売り手(供給)の関係において価格が決まるということなのです。すなわち、需要と供給の関係において市場価格が決定するということです。
供給が一定のもとで需要が多ければ価格は上がり、需要一定のもとで供給が多ければ価格は下がるのです。

このように需要・供給の関係で価格が上げ下げするのですが、ここで問題になるのは、一体何を基準として価格が上がったり下がったりするのかということです。必ず、価格の上下運動はある一定の基準、基になる中身が存在するはずです。需要・供給によって上げ下げする価格というのは、その内実の現象にすぎないのです。
それでは一体、その中身になる内実のもの、実体とは何かが問われなければならないでしょう。

・価格の内実は価値

前回、私たちは日常生活において物やサービスを商品として買う行為から始まること、そして商品交換は一定の価格に従って行われていること、その価格は買い手と売り手の関係、すなわち需要・供給によって決まることが明らかになりました。
では一体、その価格の中身、内実は何かが解明されなければならないでしょう。

先にみたように一見、生活感覚としては財やサービスの有用性やそれを使用することによって得られる満足度(効用)によって価格が決まるかのように見えますが、それは客観性に欠けるのです。
財やサービスはそれぞれ違った使用価値があり有用性があるからこそ、その使用によって違った効用をもつのです。その違いがあるにもかかわらず、それがある一定の量的に同等なものとして交換されているのです。

だとすると、この同等とみなされている実体なるものは何かということです。

それは唯一、財の生産過程における人間の労力やエネルギーの産物という点です。
すなわち人間の一定量の労働が費やされているという点で、それぞれ有用性が違った財が同質なものとして交換可能性を持つことになるのです。
この人間労働こそが財やサービスを提供する際のコストの内実なのです。

ある財についてみようと思うのですが、財のコストは基本的にそれを生産するのにかかる費用のことを意味します。ところが財の生産における費用というのは、結局は財を生産するうえで費やした人間の労苦やエネルギー、すなわち人間の労働に他ならないのです。要するに、財の生産にどれだけの労働が費やされたかによってコストが判断されるのです。したがって、このコストの内実はまさに人間の労働なのです。

経済学において、財の生産に費やされたこの人間の労働を価値と呼んでいます。すなわち財の価格の中身は価値ということです。
価格は価値を内実として、価値に基づいて市場におけるその時々の需要と供給によって実際の価格(市場価格)が決まるのです。
そういう意味では、価値が価格の名実であり、価格は価値の現象形態にほかならないのです。

以上のように、ある財やサービスの価格は人間の労働を実体(内実)とする価値に基づいて需要供給関係によって決まると言えるでしょう。

こうみると、人間の労働は自然経済であれ交換経済であれ、歴史上のどの社会制度においても、富の源泉として人間社会の源であったといえるでしょう。

このように現代社会は商品経済で成り立っており、その商品の交換は一定の価格に基づいておこなわれているということ、そしてその価格は価値を基準にして需要供給によって決まるのです。

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